五年ぶりの東京は雨だった。「サブリナ」というA大の近くのビルの二階にある店の窓際で昼間から一人ビールを飲んでいた。赤坂東急ホテルから青山通りを約三十分、傘もささず歩いて来た。なすこともなく雨に打たれるプラタナスの街路樹を見ていた。こんなに雨の似合う街もないだろう。
十年前、今にして思えば私達は一つの実験をしたのだった。揺るぎない「今」というものは存在するものだろうか、時間のタテ軸とヨコ軸は若さというピンで止められるものだろうかと。
(略)
「先生、SOMETIME AGOってあん時とでも訳すんでしょ」
「さあ、今日のわたしは語学に疎そうだから」と落としたフリスビーを拾いながら笑う表情にたまらないほどの大人の匂いを感じた。「あなたっていつでも大真面目なのね・・」
その夕刻から小雨が降り出した。私達は表参道を通って青山通りに出て「サブリナ」でビールを飲んだ。「楽しかったけど少し疲れたわ、INOUE KEIさん」、「ぼくもです」。出席を取る時の例の口調でことさらフルネームで呼ばれたことがとても嬉しかった。
(略)
私達は雨の街に出た。お互いの「今」だけを確かめるように赤坂まで。私のコットンパンツも先生のグレーのロングコートもびしょ濡れだったが、全く気にならなかった。時々振り向く先生の濡れた前髪がとても素敵だった。誰かにきっと見られているといういう意識が私の優越感をさらにかき立てた。
(略)
「INOUEさん、このフレーズを訳してみて下さい」、出席も取らずいきなり講義が始まったので私はしどろもどろになりながらも、なんとかやり過ごした。「はい、けっこうです。次!」刺々しい90分の後、私は「サブリナ」に呼ばれた。
そこで先生のフェミニズムの雑誌が今月で打ち切られること、さらにアメリカ人の貿易商と結婚してアトランタに永住されることを聞かされた。黒いアイラインの輪郭がかすかに流れたと見えたのは私の錯覚だろうか。何かを通り越して平然としていられる自分が不思議でならなかった。
「あなたの詩はもっともっと良くなるとおもうわ。あなたには時間がある。あなたは若いし何かキラリと光る物を持っている人だから。私は学校に残ってもっとがんばるつもりだったわ・・でも・・」先生の言葉はそこでとぎれた。
有線放送でチック・コリアの「SOMETIME AGO」がかかっている。私はビールをもう一本注文したついでに、ブルック・ベントンの「レイニーナイト・イン・ジョージア」をリクエストした。窓の外の雨脚が一段と強くなったようだ。
(注)だいぶ前に同人誌に書いた短篇小説です。新聞に小さく「詩的な小説」とか紹介されて。短篇とはいえ原稿用紙に30枚です。ブラインドとはほど遠い僕のキータッチです。自分で詩的と思う部分のみストーリーが解るように抜粋しました。体力的には精一杯です。
舞台は70年安保の頃の渋谷のA大。語学教師でフェミニズム雑誌を発行する女性詩人の教師と、彼女を慕う教え子の詩書きの学生との恋愛ものです。
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